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“劇的でない傷つき”を抱えて
年始、信頼するキャリアコンサルタントに勅使川原真衣さんの書籍を勧められた。
曰く、「今のあなたが抱く感覚にぴったりだから」とのこと。
その時の私といえば。長めの年末年始休暇を終え、ぽわーっとアクセルがかかり切らない状態の中で冷や水ぶっかけられたかの如く怒涛の組織体制変更を言い渡され、「自分のキャリアは運とほんの少しの意思決定で作られてる気がする」とぼやいていた。私の実力、なんてものは何%反映されての今なんだろうか。能力やスキルで切り拓いた実感がない。
「私は自分の力でここまできた」と胸を張れる実感が、どうにも持てない。
その時そのときの環境や周囲の流れに乗り、運よく居場所を得てきた気がする。
単なるポジショニングの妙なのではないか。その時、そこに、いた。以上!
そう思えば思うほど、確固たる自信なんてものは希薄になっていく。
勅使川原さんの書籍は複数あるが、著者検索をした際に、目が合ったタイトルがこちらだった。
「そうか。私は傷ついていたのかもしれない。」
仕事で傷つくことは、もっと分かりやすくて劇的なものだと思っていた。
理不尽なハラスメントを受けるとか、大勢の前で強く叱責されるとか、とんでもない長時間労働とか。そういう明確な形でしか「傷ついた」と言ってはいけない気がしていたのだ。
だが、ふとした違和感、静かに積もる不信感、言葉にはしづらい疑問。
それらは誰にも伝えないまま、「こんなものなのだろう」と飲み込んでいく。
伝えたところで飲み会の愚痴レベルだよなあ、という諦念と、言っても”良いこと”はないから抑えておくべきだな、という理性的な判断。
この「自組織を信用しきれない感覚」は、もしかすると、自分が傷ついている証拠なのかもしれないぞ。そう思いながら、私はこの本を手に取った。
著者の経歴と本の概要
著者の勅使川原真衣さんは、組織開発の専門家として、多くの企業と関わってきた人物である。
過去には『「能力」の生きづらさをほぐす』という著作を執筆し、成果主義のもとで「能力」を軸に評価されることの生きづらさを指摘してきた。(ちなみに私が初めて読んだ勅使川原さんの著作はこちらだ。会話形式で読みやすいので、電子書籍で通勤&布団で読めたのが良かった。こちらもおすすめ!)
本書『職場で傷つく』では、「職場の傷つき」というテーマを正面から取り上げる。
ハラスメントや暴力といった分かりやすい問題ではなく、「言えない傷つき」「見えない傷つき」に焦点を当て、組織の中で人々がどのように無意識のうちに消耗していくのかを解き明かしている。
目次構成も特徴的。
- 第1章:「職場で傷つく」とはどういうことか?
- 第2章:「職場で傷つく」と言えない・言わせないメカニズム
- 第3章:「能力主義」の壁を越える
- 第4章:いざ実践──「ことばじり」から社会の変革に挑む
この流れを見ると、どうやら本書における「傷つき」とは、個人の問題に帰結するわけでなさそうな期待が高まる。著者はそのバックグラウンドから、組織開発の文脈から改善策を模索している。
「傷つく」と表現したことがないことに「気づく」
私はこれまで人材業界の営業職として働き、長い間「成果主義」「数字で評価される世界」に身を置いてきた。
平均年齢も若い業界でしてね。。。こう、元気がいいんですよね。(大人の言葉遣い)
「傷つく」というよりは、「疲れた」であったり、「ついていけねえ〜!」「価値観が違う!」「ちょっと気合が必要」「心に衣を一枚纏っておくか」みたいな表現をしてきていた。
取り上げられる事例を読むと、私にとって特別珍しいものでないにも関わらず、なぜか、今まで「傷つく」と表現したことはないと気づく。
取り上げられる話に身に覚えはある。感情移入もできる。それは確かに「傷ついた」がふさわしい心情である。
それなのに、なぜか「”ソレ”を”そう”表現したことはない」事実に直面する。
これは構造の話だ。職場での傷つきを認めたら、それは自分の無能さを証明することになると言わんばかりの社会の構造がある。すでに構造に組み込まれている自分を自覚する。
この本は、その“言えなさ”の背景を丁寧にひもといていた。
もはや第1章に辿り着く前の「はじめに」の20ページだけで、いったん本を閉じて落ち着く時間が必要だったんですが。え。このパンドラの箱、開けちゃうの……??
「評価」は、本当に私自身のものなのか?
私がいる業界は、成果主義が色濃く反映される世界だ。
特に現職はドラスティックに売上数字で評価が決まる。指標がシンプルすぎて逃げ場がない。
指標が一つだから、成果が出れば「優秀」、未達なら「能力がない」と断じられることに言い訳ができない。できたか、できなかったか。それだけでしかないのだ。
しかし、その評価は本当に私自身の能力を測るものなのか?
仕事の成果は、自分の努力だけでは決まらない。
市場の変動やタイミング、運、周囲のサポート、会社のリソースなど、さまざまな要素が絡み合って結果が生まれる。
しかしまあ、「それも込みで成果を出せるか否かが『能力』だ」と脳内に召喚した上司は言うのだ。
自己評価のジェットコースター
私こそが、自分自身への「評価」を定められない。
結果が良くても悪くても、どこからどこまでが自分のスキルと言えるのかが分からない。
私めっちゃ天才じゃんと盛り上がった翌日に、どうしうようもない無能だなと思うことなんてざらにある。
全体予算を達成していも、新規受注数が足りていない。
目標は未達だけど、クライアントからはベタ褒めされた。
チームリーダーとの折り合いが悪くなった日に、バックオフィスの人たちと協業事例を創出した。
なんだこの自己評価のジェットーコースターは。
果たして私は優秀なのか? 無能なのか!?
昨日の私と今日の私で大した変化はないはずなのに。
「一人の人間の能力がそこまでコロコロと変わるとは思えない」とは、著者の初作、『「能力」の生きづらさをほぐす』ですっと気持ちが軽くなった一節だ。でもさ、いつまでこのジェットコースターに乗ればいいのよ。
副業と家庭がもたらす「評価」のバランス
その点において、私は「副業」と「家庭」に助けられてきたと感じる。
特定の「評価に晒される環境」(私で言えば、営業実績=その人の評価)に長くいると、その価値観を無自覚に内面化しやすいのだ。
企業の評価制度が絶対的なものではなく、あくまで「その組織の基準」でしかないことは、頭では理解している。もちろん、それすらも特定環境の特定職務に関する評価で、「自分の人格や人生をジャッジするものでない」ことくらい、知っているのだ。
でも毎日のように強いプレッシャーに晒されると、その指標はあっという間にプライベートにまで浸潤してくる。
そんな時に、副業や家庭でのあれこれは、自分自身をフラットに戻してくれた。
保育園のお迎えで子どもが一目散に駆け寄ってきた。
キャリア相談のレビューにこちらが嬉し泣きするような声が寄せられた。
夫が排水溝の掃除をしてくれていて、やはり水回りを綺麗に出来る者こそ正義と思い至った。
評価軸なんてものは無数にあり、それぞれの立場でそれぞれが思うように、「ありがとう」を感じている。
そりゃまあ、ハマらんときもあるよねと、職場における「評価」に乱されすぎずに済んだ。
実際、P134の「採用時に重視する能力の変遷グラフ」を見たら苦笑いするしかない。
日々を生きる個人レベルですらこうなのだ、いわんやマクロな”能力”指標たるや。
真面目に世の中で言われる「優秀な人像」を目指すことがバカらしくなってしまうデータだよほんと。
「職場の傷つき」を個人の問題にすれば、組織は得をする
P126に、こんな問いがある。
「職場の傷つきを個人の能力の問題にすると、どんな『いいこと』があるのか?」
この問いが投げかけられたとき、私は思わず手を止めた。
この本の中で最も印象に残った一節の一つだった。
解せない事象は、得する誰かがいるから構造的に維持されているのだ。
この問いを企業側の視点から見れば、驚くほどシンプルな答えが出てくる。
答え合わせは書籍P126に譲るとして、そういえばこの問いは、私のキャリアコンサルティングでもよく発する問いだと思い出した。
たとえば、あるクライアントが「英語の勉強をすべきなのは分かっている。でも、どうしてもやる気が出ないんです。」と訴えたとする。
「それによってどんな問題が起きていますか?」と聞けば、たいていは、「テキストだけが積み上がる」「TOEICの受験費用を無駄にした」など負の側面が語られる。
しかし、もう一歩踏み込んで「あなたがやる気を失うことで、どんな『いいこと』がありますか?」と問うと、多くの人が一瞬、答えに詰まる。
しばらく考えると苦笑いしながら意外な答えが出てくるものなのだ。
「勉強をせずに済む。」
「自分の出来なさと向き合わずに済む。」
「勉強の過程で恥ずかしい思いをすることもない。英会話なんて恥の連続でしかない。」
「英語はできないからと断れた業務を、断る理由がなくなってしまう。仕事がこれ以上忙しくなるのはごめん被りたいのだ。」
つまり、なんかおかしくない?という事象も、それが続くならば、何かしらの合理的な構造が生まれているのだ。
まあ、私のことなんですけどね。
この問いには不自然な事象の構造を浮かび上がらせるパワーがあるのですよ。
「他者をジャッジする前に、謝意」と、「受容・共感・自己一致」の関連性
P276には、この本の結論ともいえる考え方が示されていた。
「評価ではなく、感謝」。
この部分を読んだとき、私はキャリアコンサルタントとして学んできた、「受容・共感・自己一致」の概念と通じるものを感じた。本文から一部引用させてもらいます。
「いてくれてありがとね」なのです。一人のできる範囲は絶対的に限りがあるのですから。誰かの下支えがあってのことなのです。その点が蔑ろにされている時に起こるのが、「傷つき」とも言えるわけです。
みんながみんな、それぞれの立場で、ないしは承認がえられていないと、どうしたってギスギスしてくるものです。
キャリアコンサルタントでは、「すぐにアドバイスをするな」と繰り返し教わる。
なぜなら、人間はそれぞれ異なる風景を見ているからだ。すぐ判断などできるものではない。
「じゃあ、こうすればいいじゃん」と評する前に、
「まずは相手の存在を受け入れ、同じ景色を共有する」ことが前提となる。
キャリアコンサルタントとして叩き込まれた「受容・共感・自己一致」の基礎動作は、誰かの無用な傷つきを避ける手段となるのではないか。ジャッジと感謝は、まさにその行為の相似形なのではなかろうか。
条件付きの感謝は人を傷つける
…とはいうものの。
結論部を読んだ時に最初に浮かんだのは、「我が子に対してなら出来るんだけどなあ」だった。
これは何を意味しているのだろうか?
条件付きの感謝。なんだよねえ。。。
うう。己の矮小さと向き合うのが辛い。
相手の存在にただ感謝し敬意を示すことすら、「感謝する程度のことはしてくれ」「それに値する能力を示してよね」という、能力主義がこびりついた条件付きのものになっているのが見て取れる。
正直、他人に行うのはしんどいものがある。
ぶっちゃけめんどくs,,,,まで喉元に上がってきたものを、抑え付けて正拳突きで打ち砕く。
私は、この書籍を、読んでしまったのだ。
その無意識の「条件付きの感謝」が、いかほど「職場での傷つき」を引き起こすか、構造的に理解してしまったのだ。
全てに”積極的関心”をもって接しろとは言わないが、それぞれの立場からの相手への感謝を表明することは、意識的に・気楽に・あればあるだけいいと言わんばかりに、やっていくべきことだろうと思う。
情けは人の為ならず。
言葉じりから変えて「傷つかない職場」を半径3mから作っていけるといいな。
だって、私は、この書籍を、読んでしまったのだ。
投稿ボタンを押す瞬間にこそ
……と、ここまで書き終えた後、ふと気づいた。
めちゃくちゃいい感じに締めて投稿するつもりだったのに。
私はこの書評をウェブに公開することはできる。
匿名のアカウントで、世界に発信することはできる。
けれど、この感想を職場の上司や同僚に伝えることは、できない、なあ〜〜〜……。
怖いもんなあ。やっぱり不利になる気がしちゃうもんなあ。
想像するに、すっっごい仲良い同僚に、この本がとても良かった!と教えることが最大値だなあ。
なんか今の私にど真ん中すぎて、急所を晒す感覚になるのですよ。。。
広い対象を想起させる『働くということ 「能力主義」を超えて』(前半を強調すると職場でも進勧めやすい!)とか、「好きな著者の最新作なの♪」という紹介文句が使える『格差の”格”ってなんですか? 無自覚な能力主義と特権性』(これもサブタイトルを伏せてしまうかもしれない!!)なら、同僚と本の話になった時にいけるかも…!!
この逡巡こそ、私が「能力主義にどっぷり浸かっている」ことの証明といえる。
この本を読んで共感した以上に、「投稿ボタンを押す瞬間」にこそ、
散々語られた脳梁主義の社会構造に組み込まれていることを、痛感したのだった。
(匿名だから晒せる弱みであることも添えて。)
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