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私は地方公立→大学で上京して、そのまま都内で勤め続けて今に至るんですね。
つい最近、子どもが同い年かつ境遇も同じ友人と話しながら、二人で戒めたことがあります。
我らは、「優等生」だったことを自覚して、子どもの教育について考えような、と。
- 両親の学歴を軽く越え
- “勉強”なるものを自発的に行い
- クラス一番、学年トップレベル
謙虚謙遜とは別のお話として。
友人も配偶者も近い環境の人多いから勘違いしちゃうんだけど、これ、普通に「優等生」と評して差し支えないんですよ。
自分が出来るから他人も出来るだろう、のバイアス
なんかさ、自分が出来ることは他人もできて当然だ、と思ってしまうバイアスあるじゃない?
そんでもって、都内で過ごしてると、教育関連はインフレの意味合いで「極端な基準」が標準化されてしまうんだけど、そんなことねーぞ、と。
冷静に考えて、自分達が「1/30」であった事実は認識せねばなるまい。
その「特性」を無視して、自分はあの環境でも出来たと言ってしまうのは、ある種の暴力になっちゃうと思うんですよ。
それは良くない。特性であることを今一度自覚するべし。
「元・田舎の優等生」が持つ特性とは?
- 自発的に勉強に取り組む姿勢
- 周囲の価値観に簡単には流されない強い意志
- 自分の道は自分で切り開こうとする精神
- 装備が貧弱な中でも諦めずなんとかする試行錯誤
あたりでしょうか。振り返ってみるに。
なかなかハードだな、田舎の優等生。。。
例えば、私自身は東北の田舎で生まれ育ち、両親はともに高卒で、そのまま地元就職しています。
祖父母叔父叔母まで広げてもストレートでの大卒者は親族にいなくて、進学については基本的に自分で情報調べて、受験は己で主導していました。
塾も大きいところはなく、高校の近くに東進衛生予備校があるくらいでした。
(自分でビデオ再生する形式やってん。。。わいは大学受験時に塾なし子だったので聞いた話だけど。。。)
両親は私を信頼していると言えば聞こえは良いのだが、「相談されても答えられないからなあ。。。」と正面切って言われてるので頼れなかったよね。
我が両親、正直か!
勉学の素養より、「精神力」と「運」が大きな変数
そんでもって、義務教育は、いわゆる「不良isモテる」な荒ぶる環境で過ごしておりました。
あのね、、、本当に実在するんだよ。
中学の入学式に裏地に赤い龍の刺繍入れた制服で気合いれてきたり、卒業式には「ズッ友」的な四字熟語を制服にいれたり特攻服みたいなの着込んで参加する子達。
わい、アラサーやで。一応、平成の民やで。昭和マンガの世界観!?と当時でも思った記憶が残ってるわ。
そんな「荒ぶる環境」においてはですね、思春期に多大なる影響を受ける「周囲の学友」の動向を無視して自分の道に突き進めるか、がめちゃんこ大事だったりします。
いかに勉学に適した素質を生まれ持ったとしても、重課金してくれる金持ち家庭に生まれようとも、我が道をいく精神がある程度ないと呑まれるのよ。
だって、自分は、少数派だから。マイノリティだから。
多数派の価値観に染まるのは早く、不良isモテるな環境で勉強をする人間は迫害されがちで、生活の中心たるコミュニティの価値観に逆らって行動し続けるのは並大抵のことではないはずなのよ。
ぶっちゃけ、環境の「運」も大きい。
ここまででも、再現性の低い「精神論」と「ど根性」なお話になってますが、さらに環境の運も変数として加わってくる気がします。
勉学の素養よりも、ずっとずっと、別のもので左右される。
- 私の「得意」を否定しない家族と、
- 同じく「得意」が一緒な幼馴染3名と、
- インターネットを手に入れ「好き」を共有できる遠い地に住む友人と、
- 中学3年生で半年だけ通った地元の塾で満たせた知的好奇心と、
- 高校で「進学校」に入り、周囲の友人ががらっと変わったこと。
これらがあったから、なんとか、そこそこ健全に思春期を過ごせたんだろうなと、振り返って思うわけです。
さ、再現性の欠片もない…!!
やはり、「だから我が子も」は通じない
正直、「地方から大学進学」の皆さんにおかれましては、
わかるー!あるあるー!我が出身校もそんな感じ〜!!と同意してくれるのではないかと思うのよ。
でもね、書き連ねてちょっと自分の中学時代に引いてるんだけど、
そんな運と強靭な精神を、「我が子」だからという理由だけで求めるのは、暴力的なことだよね。
だって、本来は嫌いであるはずの精神論オンパレードなんだもん。
- 小中の勉強なんて、別につまずくところないでしょ!
- いやいやいや。勉強くらい自分でやりなよ!
- そんなにお金かけてもらえて羨ましい。
- ここまで揃えてて、なぜできないのか!!!
多分、今後、我が子に対してこう言いたくなる瞬間がくると思うのだ。
なぜって、自分はその装備もなしにやってきた”実績”があるから。
自分ができたことは、もっと環境が良いならなおのこと、「できて当たり前」だと思ってしまうから。
子どもと親は別人格である
よくよく理解はしてるつもりなんだけど、ついうっかりすると、「自分が子どもの頃にして欲しかったこと」を与えようとしちゃうんですよねぇ。
人生経験があるからこその工夫と、幼い頃の自分を投影との境目が、ぼんやりとする瞬間はある。
これは前者の判断か?
後者が多分に入り込み、勝手な期待やあるべき姿を押し付けていないか?
そんなところを、「目の前の子どもと向き合う」ことで考えていきたいよね。
「投影」を避けるために、今一度、自分を褒めまくろう!
近い境遇の方にご提案したいのは、地方出身のハンデを負いつつ進学して、今に至っている「自分のすごさ」を褒め称えまくることです。
今一度、「私なんて大したことない」という謙虚と謙遜を捨てて、パーリナイな勢いで自画自賛祭りをしましょう!
むしろ、すべきです。
そして、「当たり前」でも「簡単」でもないことを成し遂げたんだと、自覚を持っておきましょう。
じゃないと、なんでこんなことも出来ないの、と。
我が子に、”当時の自分”を投影して、評価を下してしまう可能性が高まるから。
まずは己を褒めまくり、「並大抵でないすげーことを成し遂げてしまった稀有な人物」たる自覚を持って、我が子の教育にあたっていきましょう!
近い境遇の方々へ。
褒め称え会とか、あの頃の何かを成仏させる会とか、やりましょうか(遠い目)
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